生まれてくることとは、どういうことでしょうか。
 あなたは今、お母さんに産んでもらって、そこにいます。
 あなたの誕生を誰よりも喜んでくれたお母さんを、あなたは知っています。
 もちろん、お母さんのお(なか)から生まれてこれたことを、あなた自身も大変喜んでいた時があったのです。

 お母さんのおっぱいを吸って、お母さんに抱かれて、ただ安らいでいた時が、どなたにもありました。今は、自分の力で生きてきたと自負している社会的に立派な人も、もとはと言えば、お母さんがいたからこそ、です。
 しかし、その原点、言うなれば、自分の原点を(ほとん)どの人は忘れ去っています。そして、忘れ去るだけならまだしも、そのお母さんに対して、どれだけの思いを吐いてきたのかを自覚している人は、また皆無に近いかもしれません。
 ただし、お母さんが原点だと言われても、そのお母さんというのは、あなたが日常的に接してきたお母さんのことを言っているのではありません。所謂(いわゆる)、あなたのお母さんは、あなたと同様に、色々な癖もあり、愚かな部分も多々あります。また、大抵の母親は、あなたを、「私の子供だ、私が産み育てた大切な我が子だ」と称して、支配の思いや、牛耳(ぎゅうじ)るエネルギーを容赦(ようしゃ)なく出してきます。
 もっとも、母親は決して、それが支配や牛耳るエネルギーだとは思っていません。「みんなあなたのためだ」と、そして、「それが母親の愛情だ」と思い込んでいるから、自分の中ではよしとしている部分があります。本当はそれが愚かなのですが、愚かだということが分からないのです。だから余計に始末が悪いのです。

 しかし、そのこととは別に、お母さんから厳然として流れるものがあります。その愚かな母親の本当の思いに、あなた自身が本当に()れていったなら、あなたは間違いなく変わっていくと思います。
 それは、あなたを我が所有物とみなしていく思いではなく、あなたをこの世に送り出せたことをただ喜び、ただただ、あなたの幸せを願っている思い、波動です。
 あなたがどんなに罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐き、無理難題を突きつけても、あなたは今許されているから、そこに存在しています。
 あなた自身の頑張り、努力などで、今の地位、名誉、財産等々を築いてきたと本当に思っておられるなら、それはあなた自身があまりにも傲慢(ごうまん)ではないでしょうか。
 ただ、今すぐに傲慢だと認めることは難しいと思います。
 しかし、いつの日にか、あなた自身に「はい、そうでした。私は傲慢でした。お母さん、申し訳ありませんでした」と、伝えてくれる自分に出会えると思います。
 その時に、あなたは、お母さんから厳然として流れてくる思いに、ただただ涙、涙だと思います。
 その時、あなたは、あなた自身の心で、日常目にしてきた母親でない母親の存在を知り、その存在から来る波動を感じていかれると思います。
 何とも言えない温もりと安らぎを、感じられるだろうと思います。
 そうなった時に、母の愛は無条件に自分を包んでくれていたことが喜びとして、心に広がっていくことでしょう。
 まず、そのような母親の本当の思いに支えられて、どなたも生まれてくることができたことを、信じていってください。それが、自分自身の原点です。

 ところで、子供は親を選べないということが、世間の通説としてあるようですが、本当はそうではありません。きちんと、あなたは、母親を選んできました。選んできたというよりも、お願いをしてきたのです。「私を産んでください」と願いを出したのです。
 肉体というものを、どうしてもあなた自身が必要としたからです。お母さんに産んでもらうということは、自分に肉体をもらうということです。
 みんな、そのようなことは、すっかり忘れ去っていきます。それは、ほぼ100%の確率です。
 そして、そこの思いに立ち返るために、この世に産まれ出た瞬間から、様々な苦労が始まっていくのです。
 しかも、原点を抜きにしているから、人生は重い荷物を背負って歩むものである、人生は苦であると、言い伝えられてきたことを信じてしまいます。鵜吞(うの)みにしていくのです。
 この世には、間違って伝えられているものがたくさんありますが、私は、このことは、最大の(あやま)ちだと思っています。

 生まれてくることは喜び、人生は喜びです。
 皆さんは、子供の誕生を喜び、祝います。それは、誕生を喜ぶことによって、「これからの様々な出来事を通して、どうぞ、本当の自分自身に目覚めてください」というメッセージを、親も子も互いに確認しているからです。しかし、その人にとって、本当の誕生日とは、「私は、生まれてくることができたこと、それだけが喜びです。お母さん、ありがとう」、そう思えた時です。そこからが自分のスタートなのだと思います。
 そのスタートラインに立たずして、本当のことは何も分からないと、私は今、そう思っています。
 それでは、どうぞそのまま、あなたが生まれてきたことについて、今どのように思っているのか、少し自分の心を(のぞ)いてみてください。
 そして、お母さんありがとう。本当に自分の中からフツフツと()()てくる思い、その思いに、()れてみてください。

  切なる思い

 私達の本当の姿は、目に見えません。形がないのです。
 では、形がない私達は、なぜ形を伴ってくるのでしょうか。つまり、なぜ、私達は生まれてくるのでしょうか。
 生まれてくるということは、それなりの意味があると思いませんか。
 何となく生まれてくるはずはありません。
 そうです、そこには、実は「生まれたい」という自分達の切なる思いがありました。
 ただただ、「自分に形をください」という切なる思いです。
 だから、私達は、何も持たずに生まれてきます。持つ必要などないのです。
 ただ、「自分に形をください」という切なる思いだけを持って、生まれてくるのです。
 人間はみんな、その切なる思いだけを心に秘め、そして、生まれてきます。

 では、その切なる思いとは、どのような思いなのでしょうか。
 それは、一言で言うならば、心の叫びです。
 本当のことが知りたい、温もりに帰りたい、本来の自分に帰りたいという、地獄の奥底からの自分自身の叫びと理解してください。
 人間はみんな、今度こそ、その自分の心からの叫びをしっかりと受け止めてやるぞという意気込みで、お母さんのお腹から生まれてきます。
 だから、生まれてくるということは、大変なことなのです。
 その思いは、生半可な思いではありません。
 もし、自分自身の心の叫びを解き放つ上で、由緒正しい家柄や身分、ある種の能力等が必要ならば、その切なる思いは、そのようなものを、きちんと用意していきます。
 その他、本当のことを知っていこうとするために「自分に形をください」と切望する思いは、すべての点において、抜かりなく準備を整えて、この世に生まれ出てくるのです。
 それが、私達の偽らざる思いです。
 ただし、私達は、それだけの思いを秘めて生まれ出てきたのに、悲しいことに、ひとたび、この世の空気を吸ってしまえば、形を本物とする思いが、ニョキニョキと()り出してきて、しかも、その思いは、圧倒的な強さで、心の奥底に秘めた思いを遠くに追いやってしまいます。
 もともと、すべては公平、平等であるのに、形の世界の区別、差別に心を奪われ、自分の切なる思いに、なかなか気付くことができなくなるのです。
 そのような転生を積み重ね、持つ者と持たざる者との格差が、次第に自分達の中で広がっていき、私達の意識の世界は、堕落の一途を辿ってきました。

  しかし、その一方で、人間達の意識の(てい)たらくの中でも、「生まれたい」という切なる思いは、どんどん仕事をします。
 そう、思いは仕事をするのです。
 私達が蓄えてきたすさまじいエネルギーを、しっかりと確認できるように、色々な形となって、私達に見させてくれます。
 例えば、そのエネルギーは、この世的に言えば、様々な分野で活躍するという形となって表現されるのです。
 そして、その結果、当然、そのエネルギーの持ち主は、財を築き、名声を博していくでしょう。
 そして、そのまた結果として、そのほとんどの人達は、自分を見失っていきます。
 財を築き、名声を博した自分は偉いと思い、どんどん自分を見失っていくのです。
 自分達のエネルギーのすさまじさを確認するのではなくて、それを大きく膨らませていく結果としてしまいます。
 つまり、自分達の中にある、形を本物とする思いを、より一層強くして、その思いにしがみついてしまいます。
 堕落してしまった人間の意識は、「自分に形をください、生まれたいのです」という切なる思いを、すでに、どこかへ追いやってしまっているから、本来辿るべき道を歩めないのです。
 持つ者は、そういうものを駆使して、この世的に成功するかもしれませんが、本来辿るべき道を歩んでいないから、やがて、「生まれたい」という切なる思いは、当然、その人に、間違っていますよというメッセージを伝えます。本来の思いに沿っていくように促します。
 一方、自ら持たざる者を設定して、それによって、自分の蓄えてきたすさまじいエネルギーを確認していこうとする場合は、残念ながら、その作業は、より困難を伴います。
 すさまじいエネルギーをより大きくしてしまう確率は、非常に高いです。形を本物とする思いにとって、持たざる者という設定は、大変厳しいと思います。
 だから、非常に高い確率で、「生まれたい」という切なる思いを、どこかへ追いやってしまう結果となっていくのです。
 当然、この場合も、間違っていますよというメッセージが伝えられます。
 このように、私達は、人生の中で、色々な形を通して、間違っていますと促されていきます。
 しかし、それが、自分が自分に流すメッセージ、自分が自分に発する警告、そういうふうには、なかなか気付けないし、受け取ることはできません。

 あなた、なぜ生まれてきたのですか。
 あなたのするべきことは、何なのでしょうか。
 あなた、このままでいいのでしょうか。
 このまま死んでいっていいのでしょうか。

 絶えず、このようなメッセージが伝えられているのです。
 自分の中の切なる思いは、絶えず、そう問いかけています。しかし、悲しいことに、人間は、今、形として確認できる自分を自分だと思ってしまっているから、自分自身の心の叫びである切なる思いは、心に響いてこないのです。
 だから、今現在の自分だけしか見えないところからは、結局、人生の終焉(しゅうえん)を迎える時期にあたり、自分は、一体何をしてきたのかという思いが心に()ぎるのでしょう。
 そして、ほとんどの人間は、その思いに答えを出せずに、彷徨(さまよ)いながら、死んでいくのだと思います。

 どんなに、この世で、一生懸命に何かを追い求め、何かに全力投球をしても、本当は、その先が見えないのではないでしょうか。その先は不透明なのではないでしょうか。
 だから、人は死を恐怖します。何も持てずに死んでいくことに恐怖します。
 確かに、死んで持っていけるものはありません。
 あの人は立派な人だ、素晴らしい功績があると、どれだけ世間から賞賛を浴びようとも、その人自身、死んでいくときに、持っていけるものは何もないのです。
 この世的なものは、何一つ持っていくことができません。

 さて、あなたは、これからどのくらい生きていくのでしょうか。あなたに残された人生の時間は、どれくらいあるのでしょうか。
 自分はこのまま死んでいっていいのだろうか。
 それぞれ、心に問いかけてみてください。

塩川香世著『母なる宇宙とともに』『あなた、このまま死んでいっていいのでしょうか』より抜粋