【自分達が偽装であることに気が付く、これが私達の最大かつ唯一の難関です。】

 偽装、偽装で世の中は大騒ぎしていますが、これは今に始まったわけではありません。
 これまでの私達の歴史を振り返れば、すべてが偽装で覆い尽くされてきたのです。
 偽装に気が付かずにやってきただけのことでした。
 私達は、自分が何者であるのか、自分がどのような存在であるのかを全く知らずに、偽物の自分を土台に()えて、時間を積み重ねてきたのです。
 自分自身が偽装に過ぎなかったという結論は、誰にも出せませんでした。
 偽装の中で、幸せや喜びを求めてきたことや、愛を語り、正義を(とな)え、平和などを求めてきたことに、誰一人気付ける人はいませんでした。
 当然、いくら奮闘努力をしても、世の中はますます混迷(こんめい)の度合いを増してくるのです。
 どこかおかしいのではないか、何か狂っていると、人間の心の暗部が、分かりやすい形となって現象化してきていることを感じている人もあると思います。
 ニュースといえば、暗いニュースばかりです。
 人を(だま)したり、殺したり、金の奴隷に成り果ててしまった人間の姿が、毎日のように報道されています。
 それは当然といえば、当然の結果です。

 そこで、「何かまともなことはないのか。あれも偽物、これも偽装、せめて、我々だけでもまっとうに生きていこうではないか」と思われている人もあるかもしれません。
 そうであるならば、自分自身が偽物だった、本当の自分を知らずに偽物の自分を自分だとしてきたことを、どうぞ、まず知っていってください。

 自分達が偽装であることに気が付く、これが私達の最大かつ唯一の難関です。
 この難関を突破しなくては、私達は、まっとうに生きていくことはできません。
 今、私達が感じている幸せも喜びも、そして、正義や愛や平和も、みんな偽装の上に成り立っているものなのです。
 偽装は偽装であって、本物ではないから、いずれそれらは偽物であることを暴露(ばくろ)していきます。
 どのように現象化していくかは、色々なパターンがあると思いますが、それらは見せかけのものであったことを、必ず示してくるのです。
 「何を根拠に、そのようなことが言えるのか。」

 それは、私達自身が、真実を知っていこう、本当の自分とはいかなるものなのかを知っていこうとしているからです。
 もちろん、ここで言う「私達」というのは、肉、形の私達を言っているのではありません。
 世の中の流れという言葉があるように、それは「流れ」と表現したほうが分りやすいでしょう。
 真実を知りたい、知っていこう、知っていくという流れです。
 私達は、その流れの中にあるのです。
 その流れそのものが、私達なのです。
 従って、気付きの促しは、これからますます起こってきます。
 自分が自分を促していくのです。
 そのためには、偽装、それを土台にして作り上げられたものが、表面に現れてきて、それらがみんな崩れていかなければなりません。
 そうです。これから、偽物は、どんどんどんどん崩れていく方向に進んでいきます。
 私達には、その作業、工程が必要なのです。
 そして、偽装の上には、偽装の世界しか築けなかったことを、それぞれが心で気が付いていく必要があるのです。
 偽装の世界は、泡と化して消え去っていく夢幻の世界です。
 夢幻の世界をつかんで、消えないでくれと祈りを捧げても、それは全くバカげていたことだったと、いつ、どこで、どのようにして気付いていくのか、それが待たれているのです。
 人間は、神とか仏とか、いわゆる摩訶不思議なパワーを貪欲に求めてきました。
 それらを、自分達人間とは別格の存在だととらえてきました。
 パワーを求める心、ひれ伏す心、畏怖(いふ)する思い、それらの思いを神や仏や宇宙のパワーと呼ばれるものに対して、どんどん向けていったのです。
 それがどれだけ愚かで無知なことなのか、自分自身を冒涜する思いであるかということは、偽装の世界の中では、絶対に分からないことでした。
 神に祈りを捧げる、忠誠を誓う、仏の道に精進(しょうじん)する、どれもこれも全くの間違いでした。
 その間違いは、人間とは、肉体という形を持っているものだという発想から来るものでした。
 これが完全なる誤りなのです。
 人間には、形がないのです。人間は、もともと目に見えないものなのです。
 しかし、現実には、みんなそれぞれに色々な身体的特徴があります。
 目に見えないものが、目に見える、識別できるものを持ってくることに、大きな意味があるからです。
 その意味を、みんな履き違えているだけのことです。
 では、目に見えないものが、なぜ、肉体という形を持つのか、持つには持つだけの意味があるのならば、それはどのようなものなのかということが、あれも偽物、これも偽物となっていく中で、段々に際立ってくるかと思います。

 ここで、提案をします。
 偽物の自分の幸せと繁栄のために、全力を注いでいく生き方に、もうそろそろ終止符を打ちませんか。
 さらに、次の三点を考えてみてください。
 何のために生まれてきたのか。
 なぜ今があるのか。
 本当にこのまま死んでいっていいのか。

 自分の生き方を方向転換する時が、どなたにも必ずやってきます。
 ただし、それは、世に言うところの生き方の方向転換というのと訳が違います。
 それらのノウハウは、もうすでに世の中に(あふ)れ返っています。
 いかに生きるべきか、どのような人生を歩んでいくべきか、名言格言、その術は、言い尽くされています。
 それらは、ある程度、参考になるかもしれませんが、それもまた、偽装の世界の中でのお話に留まっているとお伝えしなければなりません。

 焦らなくてもいいと思います。
 じっくりと世の中を眺めていけばいいと思います。
 これから、日本の国が、世界の国々がどのようになっていくのか、ひいては、地球そのものがどう変化していくのか、そう遠からず、私達の目に、耳に、届けられることでしょう。
 日の出の勢いのように栄えているように映っても、所詮、それらは、偽装社会の中の出来事です。
 だから、その繁栄は、何かのきっかけで、簡単に崩れていくのです。
 形が崩れて、内部の汚さ、(みにく)さが白日のもとにさらけ出されます。
 自分達の目の前に展開していく現実を通して、自分達の愚かさ、無能さを知っていく運びとなっています。
 そして、それに拍車をかけていくのが、天変地異です。
 そのようなことを経て、私達は、自分の外に求めてきたものの限界を知っていきます。
 形は、神を捨てる、信じていたものを捨てていくということになるでしょう。
 捨てるといっても、簡単に信じてきたものを捨てることはできません。
 捨てざるを得ないというほうが妥当です。

 何を信じてきたのだろうか。
 何を信じていけばいいのだろうか。
 この過渡期(かとき)は、大変な時間です。
 大変な時間を経て、ようやく、人間は、自分の中に思いを向け始めます。

 自分とは、いかなる存在か。

 一瞬のうちに、ことごとく消失してしまう現実を前にして、茫然自失(ぼうぜんじしつ)の状態の自分があるでしょう。
 現実を受け止める以外にありません。
 完全にお手上げの状態です。
 しかし、そこからです。
 そこから、私達は出発していくのです。

 肉、形を本物とする思いの中で、必死に目先だけの幸せを追いかける毎日であれば、本当にそのようなことが起こってくるのかという思いもあって、今はまだ、非現実的なことでしかないと思います。
 人生は一度切り、人間、死ねば終わりという思いは、人間の心の中に根深くある思いです。
 だからこそ、今を大切に、命を大切にということでしょう。
 そして、大切な今という時を奪うもの、大切な命を奪うもの、それは、自分達の敵でしかありません。
 敵とは戦って、勝利しなければなりません。
 戦いのエネルギーを出し続けていきます。
 これが、今までの私達のやってきたことです。
 正義を旗印に、戦いのエネルギーを流してきました。
 愛を求めて戦い続けてきましたし、平和を願いながら、戦いのエネルギーを流してきたという矛盾の中にもあったのです。
 そのような私達のあり方に、完全にノーの判定が下ります。
 それが、これからの時間だと、私は感じています。

(塩川香世著『愛と死の真実』より抜粋)